「おばさん、いるぅ?」戸口で多佳の声がした。
「あら、めずらしいね。このところちっとも顔を見せないと思ってたけど、上がってお茶でも飲んでおいき」
母が流しで洗いものの手も休めずに言う。
「いいよ、ここで」そう言いながら、多佳は上がり口に腰を下ろそうとした。
「そんなとこじゃ、寒いよ。こっちに来てこたつにお入りよ。すぐにお茶入れるからさ」
「それじゃあ、せっかくだから、ひさしぶりにおばさんのおいしいお茶でもごちそうになっていくか」
「そうだよ、あいかわらずのからっ茶だけど、さあさ、お入り、お入り」
母は「お茶入れ名人」である。貧しいながらせめて好きなお茶くらいおいしく飲みたいといって、昔からお茶だけはいいものを買っていた。といっても母の精いっぱいの贅沢は「芽茶」である。
芽茶は煎茶や玉露を作る際に出た芽や葉の先端などを集めた茶で、煎茶製造の際に副産物として出るお茶であるため、値段の割に味は一級品の茶と比べても劣らないのだそうだ。
母にせかされて、多佳は上がってくるとわたしの向かいに膝をすべらせた。髪を無造作に束ねて白っぽいストールを頭にすっぽりと巻いた多佳の姿はなんとなくみすぼらしく見えた。多佳が入ってきたので電気炬燵の中が急にひんやりと冷たくなった。
「寒いね。今日はお休み?」多佳はこたつの中でせわしなく手をすり合わせながら、本を読んでいたわたしに向かって言った。
「今日は日曜日だもん」
「そうか、そうだったね。日曜日だからおばさんも家にいるんだったっけ」
わたしが高校3年の終わりころになって、母はついに駄菓子屋の店をやめた。駄菓子とおでんと内職と、思いつく限り手を尽くしても、どうにも暮らしは成り立たなくなっていた。
店を閉めると同時に母は働きに出た。その年の3月にできたばかりの霞が関ビルに入っていた「八雲」という広島民芸料理の調理場の雑用係で、若いころの女中奉公を別にすれば、40半ばを過ぎてはじめての就職だった。
駄菓子屋をやめる、それは長い間のわたしの念願だったけれど、いざやめてみると周辺との繋がりは見事に断ち切られてしまった。
わたしが玉の井で出会ったさまざまな人間模様、見聞きしたさまざまな出来事は、四六時中あけ放した店があればこそのことだった。
そのころは、まるで路上生活をしているようなものだとよく思ったものだ。生活の場になっている奥の4畳半と店のあいだにはいちおう硝子戸の仕切りはあったけれど、寝るとき以外は真冬のどんな寒いときでもほとんど開けっぱなしだったから、外のようすは居ながらにして丸見え、通りを行き来するひとたちは常にわたしたちにチェックされ、わが家はまるで関所か監視塔だった。
外が丸見えということは、外からも部屋の中が丸見えということだ。寝っ転がってテレビを見ていても、ご飯を食べていても、なにもかも素通しだった。大あくびの真っ最中にたまたま通りかかった同級生のおとこの子とぴったり目が合って、慌てふためいたこともあった。
近所の人たちは、買い物がなくても、特別用事がなくても、通りすがりに挨拶し、ふらっと立ち寄って話しこんでゆく。よく知っているひとも、それほどでもないひとも、ともかくも無数のひとたちが、わが家の店先で立ち止まった。
それが、戸が立てられたわが家には特別な用事がある人以外はやって来ない。まして母が働きはじめて日曜日以外の日中は母がいないのだからひとが来ないのは当然で、こちらから出ていかなければ誰に出会うこともなくなった。
誰にも邪魔されず静かに暮らしたいと願ってはいたものの、そうなればなったで、なんとなく物足りなく寂しかった。
そんなわけだったから、あんなに入り浸りだった多佳とも、ときには一ヶ月も2ヶ月も顔を合わすことがなくなっていた。
「おばさん、あいつが、来たってよ」すり合わせていた手を止めて多佳が言った。「あいつって?」「決まってるじゃない、喜一よ。喜一が夕べ『ノワール』に来たんだって。さっき『ノワール』のママが教えに来てくれたのよ」
母のお茶を注ぐ手が止まった。
「まぁ、きいっちゃんが、来たの。それで、どうだった? 元気だったのかい? どこでどうしてたって?」
急須を持ったまま身を乗り出して母は畳みかけるように聞く。その声がいかにもうれしそうに弾んでいた。待ちに待った喜一がついにやって来た。喜一が玉の井に姿を見せなくなってから10年が過ぎていた。
「それがさぁ、あの半やくざがすっかり変っちゃったって。いいおやじになってたってよ。それでもひとりじゃ来れなくて、ともだちといっしょだったって。あいかわらず意気地なんだねぇ、やっこさんは」
多佳は両方の手のひらを頬にあててくすくすと笑った。やっこさんかぁ、懐かしい呼び名だとわたしは思った。
「そおぉ、もういい年だもんね。あれからいったい何年たったかねぇ」
「10年、10年よ」
「10年かぁ、もう、そんなになったか・・・。そうだよねぇ、しおりちゃんが来年は中学になるんだから」
「10年よ、もう、10年になった・・・」
多佳はしみじみとした口調で同じ言葉をくりかえした。
多佳はひとりでしおりを育ててきた。定職にはつかず、Yシャツの襟付けのような内職や、ビルの掃除、寮のまかないといったあまり芳しいとも言えないような仕事を行き当たりばったりに転々としていた。
「ちゃんとした仕事を持たなきゃだめだよ。その気になればどんないい仕事だってできるじゃないか。あんたがいつまでもそんないい加減なことをしてると、今にこどもに泣かされることになる。こどもは親の背中を見て育つもんだからね」
母は事あるごとにそう言っていたが、多佳はうんうんと空返事するばかりで、毎日を投げやりに生きているとしか思えない暮らしぶりだった。
住まいも安いばかりのぼろアパートだったり、玉の井町会の集会所の一室を借り受けたりと、こちらもまた行き当たりばったりだった。
多佳の実家である「よし川」は7、8年前に厨房から火を出して焼けてしまった。銘酒屋街がなくなったあともそれなりに商売をつづけて繁盛しているように見えていたが、内実は火の車だったようで、焼け出されたあとは再建する気力も資力も残っていなかったらしい。
けっこうな広さがあった土地の大部分は類焼した近隣への補償のために手放し、残りの土地に家を立て、多佳の両親と末の妹一家が住んでいる。多佳親子がそこに入りこむ余地はなかった。
目鼻立ちのはっきりした多佳の顔はあいかわらずきれいだったが、みけんに一本、深く切り込んだような皺があって、時には年より老けて見えることがあった。
が、多佳の内面は10年前と少しも変わっていない。多佳の時間は10年前に止まってしまったようだった。喜一が戻って来るのを、今日か、明日かと待っているうちにいつの間にか10年が過ぎてしまった、そんなところだったのだろう。
「それがさ、あんなおとこでもやっぱり父親なんだね。しおりのこといろいろ聞いてたそうだ。こんど中学だって言ったらさ、「何もしてこなくて申し訳ないと思ってます」って言ったそうよ。あいつが、そう言ったんだって。喜一がそんないっちょ前の口をきいたんだって。笑わせるじゃないか、おばさん」「そうか、そうか、きいっちゃんもひとの親だねェ」
母はエプロンの袖口で目頭をぬぐっている。
「あのおとこがさ、きちんと背広着こんで言葉使いもまるっきり変わっちゃって、そんなひと並みなことを言ったって。『ノワール』のママも驚いてたわ。きいっちゃんがそんなに真面目になるなんて信じられないって。そりゃそうだろ、もうふたりのこどもの父親だっていうんだから」
多佳は終いのひと言を甲高い声で吐き出すように言った。
「ええっ、きいっちゃん結婚してたの!」
母が顔をあげて、頓狂な声で言った。
「そうなんだって、5歳と3歳のこどもがいるんだって。上の子は相手の連れ子だって話だったけど」
「まぁ、そうだったの、結婚してたのか・・・」
「でも、おばさん、あいつがひとりでいるなんて考えられないじゃないか。わたしはそう思ってたよ。たぶんそんなことだろうって思ってた。わたしはひとりでいたけど、あいつがひとりでいられるはずがないって」
それは他の誰かにではなく、自分自身に言い聞かせているような口ぶりだった。
「そうなの、こどもまでいたの・・・。そうだね、おとこが10年もひとりでいるなんてことないよね。ひとりでいるなんて考えてたほうがおかしいよね」
母はがっくりと肩を落としていた。
「わたしが籍を抜いてから3年くらいであのおふくろが死んだんだって。あいつ、さびしがり屋だからさ、ひとりじゃいられなくなったんだろう」
「だったらここに戻ってくりゃよかったんだ。みんな待ってたのに。わたしだってきいっちゃんが現れるのを今か今かと待ってたんだ。そんなに敷居が高かったかねェ。やだねぇ、まったく。ほんとうに待ってたのに。敷居が高かったかねぇ、気が小さいからねぇ。でも、こうやって来たところをみるとあんたたちのことが気にかかってたんだね。忘れてなかったんだね」
「そうかね、おばさん、ほんとうにそう思う?」
多佳の声が急に柔らかくなった。
そのときの多佳の気持ちは手に取るようにわかる。母からそのひと言を聞きたいためにここに来たのだ。『ノワール』のママから喜一のことを聞かされて、どうにも気持の収まりがつかないまま出かけてきたのだ。多佳が喜一のことをこんなふうに話せるのは、母しかいなかった。
「そりゃそうだよ、こどものことを思わない親がどこにいるものか。ましてきいっちゃんはほんとうは気持ちのやさしいおとこなんだもの。自分が幸せに暮していればいるだけ、いっそう置いてきたあんたやしおりちゃんのことが気にかかっていたことだろうよ。死んだ子の年を数えるっていうけど、しおりちゃんの年を指折り数えてきたことだろうよ」
母はひと言ひと言、噛み砕くようにしみじみと言った。
「そうかね、忘れてなかったかね」
「そうだよ、忘れることなんかあるもんか。だけど、わたしゃ、一度きいっちゃんに会いたいね。会ってひと言言ってやりたいよ。だってあんまりじゃないか、なんだい、まったく。わたしが待っていたより何倍も何十倍も多佳ちゃんは待っていたのに。しおりちゃんってこどもだっているというのに。離婚届け突きつけられたからって、本気じゃないってことくらいわかってたはずだろうに。ほんとうに、あんまりじゃないか、悔しいったらありゃしない。なんだい、なんだい、まったく、恨めしいねぇ、情けないねぇ」
母は今度は両手で顔をおおって、声をあげて泣き出した。
多佳は黙ってうつむいたまま動かない。それはほんのいっ時のことだったが、わたしには気が遠くなるほど長い時間だったように思えた。冬の日の白々と冷たい空気が勝手口の曇りガラスを通して伝わってくるようだった。
ふたりのまわりだけ時がむやみにゆっくり流れてゆく。あまりゆっくりすぎてこのまま止まってしまいそうなほどだった。
いっそこのまま止まってしまえばいいのにとわたしは思った。できるものなら多佳はきっとこの静けさの中にずっと沈んでいたかったことだろう。わたしはこたつ布団に顔をうずめた。母のように声を上げては泣けなかったが、涙がつぎつきとこぼれてきた。

「あぁあ、わたし、これで、さっぱりした。よかったよ、やっこさんがまともに結婚してくれていて」
多佳がすっぱりと思い切ったように顔をあげた。いつのもにぎやかな声に戻っていた。
「わたしさ、心配してたんだ。やっこさんのことだからどうせろくなことになりゃしないだろ。酒びたりのヨイヨイのじいさんになってからしおりの世話になりにきたりするんじゃないかって。『しおりぃ、おれがおまえのほんとうのおとっつあんだよぉ、面倒見てくれよぉ』なんて言ってさ」
多佳はおどけたふりでからだを揺すりながらひとしきり中風病みの振りをして見せると、母の入れたお茶を一気に飲み干して、「ああ、おいしい」と息をついた。
「死んだって言い聞かせてあるのにさ、いきなりそんなじいさんが出てきたんじゃしおりがあんまりかわいそうだからね。ああ、もう、そんな心配しなくていいんだ。これでほんとうにおさらばさっさだ。きれいさっぱりおさらばさっさよ。ハハハ・・・」
威勢のいい笑い声をあげて右手をひらひら振りながら、多佳は「おさらばさっさ、おさらばさっさ」とくり返した。
「そうだ、そうだね、ものは考えようだ」
母が目をぬぐいながら顔を変にゆがめて多佳といっしょに笑った。
「それじゃ、おばさん、つまらない話聞かせちゃって悪かったね。時間とらせちゃってさ」
「もう帰るの? しばらくぶりで来たのに」
「うん、近所の人に着物の着付け頼まれちゃってさ。12時には行かなきゃならないんだ。たいした金にはならないけど、ちょっとしたお小遣い稼ぎにはなるよ」
「そりゃ、いいわ。そういう仕事がたくさん入ってくるといいね。ともかくも稼いでいかなきゃならないんだから」
「はは、稼ぐに追いつく貧乏なしってね。だけど、こちとら足が遅いからすぐに貧乏神に追いつかれちゃってさ、貧乏ヒマなし、貧乏ヒマなし」
「なるほど、足が遅すぎるのか。わたしなんか貧乏神に襟首つかまれてぐうの音も出やしない」「ほんとにね、こんなことならもっと若いうちに走る練習をちゃんとやっときゃよかったよ」
抱えていたストールを掛け直しながら、多佳は「よっこらしょ」と立ち上がった。
「今日はばかに冷えるねぇ。この分じゃ今夜あたり雪になるかもしれないよ」
多佳は戸口に立って空を見上げる。
「あら、やだ、もう降ってきてるわ。みぞれよ、おばさん。寒いはずだ・・・」
「傘、持っておいき。あんたに貸す傘くらいあるからさ」
「いいよ、すぐそこだもん」
ストールをかき合せながら多佳は出て行った。すぼませた痩せた肩がいかにも寒げだった。
多佳が出て行った曇りガラスの戸口からわたしは目が離せなかった。多佳と喜一はほんとうに多佳の言うとおり「おさらばさっさ」になってしまったのだろうか。
ふたりの間柄がこんなふうに終わってしまうとは思っていなかった。今はだめでも、いつか喜一が帰ってくる、いつかきっと元に戻る、そう思い込んでいた。
10年のあいだにこの町もずいぶん変わった。楠木田は多佳とのことがあってから2年もしないうちに脳溢血であっさり死んでしまった。それにとってかわるように奥さんのほうはすっかり元気になって、今では爆弾ねえさんと二人三脚で組と店とを取り仕切っている。
しかし、以前のような勢いはなく、やくざの姿も少なくなった。バー街はさびれる一方だ。
わが家の不良たちのほとんどはとっくにこの町を出て行って、めったに顔を見せることもない。喜一までがいなくなって多佳ひとりがぽつんとここに取り残されてしまった。
多佳にはこの先もたいしていいことは待っていなさそうだ。むすめのしおりは病気がちの弱々しい子で、骨を折ったのリンパ腺が腫れたのとしょっちゅう入院さわぎを繰くり返している。
「なんだか、多佳ちゃんが、かわいそうね」と言うと、
「仕方ないさ、みんなそうやって年を取っていくんだもの・・・」
いつもながら、いささかピント外れな母の返事が返ってきた。母とわたしが同時に「グスン」と鼻をすすった。