多佳が勤めはじめてちょうど1週間がたった夜、遅くなって雨が降り出した。雨脚はどんどん強まり、強い風にあおられて大粒の雨が横なぐりに吹き付けた。雷までが鳴りはじめすぐ頭上でガラガラと雷鳴がとどろいたと思ったとたん、電燈が2、3度点滅して消えてしまった。
吹き荒れる嵐の中で、母と咲とわたしの3人はちゃぶ台の上に乗ったろうそくの火をじっと見つめていた。誰も何も言わなかったが3人ともしおりのことを考えていたに違いない。
この雷ではしおりは目を覚ましてしまったろう。きっと真っ暗な中でおびえて泣いていることだろう。どんなに泣いても誰も来てはくれないのだ。
泣いているしおりの姿を思い浮かべると、わたしのせいじゃない、わたしが悪いわけじゃないとは思いながらも、しおりの泣き声までが聞こえてくるようで、胸のあたりがひりひりと痛んでくるのだった。
雷がひとしきり収まると、母は「ちょっと」とだけ言って雨の中に出て行った。20分程して母は多佳の赤いねんねこ袢纏を着てしおりを背負って帰ってきた。「真っ暗な中でひとりで泣いてるだろ。かわいそうで置いてこれなかったよ」
母はわたしに顔を向けず、うなだれたままそう言った。
しおりは負ぶわれてほっとしたのか、背中に片頬をぴったりと寄せてちいさな寝息を立てて眠っていた。頬に渇いた涙の痕がいくつも筋を引いて、目がしらに涙がひと粒渇ききらずに残っていた。
わたしはもう何も言うことができなかった。わたしがありったけの思いをぶつけて流した大量の涙も、しおりのそのひと粒に勝てなかったのだ。その翌日からしおりはわが家で預かることになった。
ただ、しぶしぶではあったものの、自分の気持ちをきちんと口にする事ができたことで、 それを母がちゃんと受け止めてくれたらしいことで、わたしはわたしなりに納得したのだった。
この時を境に、母とわたしの関係が変わったように思う。なにをどう越えたのかはわからないが、とにかくわたしはなにかをひとつ越えて母と同じ線上に立った。母はもう怖い母ではなく、わたしは母と対等に向き合うことができるようになったのだ。
母は母で、わたしが義務教育を終えて高校生になったことで背負ってきた大きな荷物のひとつを下した気になっていたのかもしれない。わたしは高校生、咲は6年になって、これでもう自分の最低限の仕事を果たしたと感じていたのかもしれなかった。
わたしはもう母のお荷物ではなく、共に生きてゆくほんとうの意味での道連れになったように思えるのだ。
しおりがいつまでうちにいたのかははっきり覚えていない。夜中に目を覚まして「マックラー、マックラー」と言って泣いていたことがあったから、2歳くらいまでいたのかもしれない。
ほじめのうちはお店が終わった1時近くに多佳が引き取りにやってきたが、布団に入ってはいても結局は眠らずに待っていることになる。雨の日もあれば風の吹き荒れる夜もある。それはそれでお互いにたいへんだからということで、翌朝8時過ぎに多佳が連れにくるようになった。
しおりと母は階下にわたしと咲は2階に寝ていたから気にならなかったが、赤ん坊というのは朝までぐっすり寝ることはほとんどない。長泣きはしないまでも何度も目を覚ましてぐずぐず言うし、おむつを替えたりミルクをやったりしなければならない。
乳幼児を持つ母親はぐっすり眠ることができる夜はめったにないくらいだから、孫を持つ年に近い40半ばの母にはずいぶんたいへんなことだったのではなかろうかと、今になってあらためて思うのである。
しおりを預かっていたちょうどそのころ、真夜中の決まった時間にどこからか「ピコ、ピコ」とちいさいこどものサンダルの音が聞こえてきた。ふたつくらい向こうの通りを歩いているらしいその音は遠くからかすかに聞こえてきて、また遠ざかってゆく。
ときどき隣に寝ている咲も目を覚まして、ふたりでその足音に耳をすませていたこともあった。おぼつかない足取りのその「ピコ、ピコ」がときどき「ピコ、ピコ、ピ・・・」と途切れることがある。
「あっ、転んじゃったのかな」
「うん、転んじゃったみたいだ」
「だいじょうぶかな」足音はまたすぐに戻って「ピコ、ピコ」と鳴りはじめる。
「どんな子かなぁ、何歳くらいかなぁ」
「1歳じゃまだあんなふうには歩けないから2歳か、2歳半か、3歳かな」
「おとこの子かなぁ、おんなの子かなぁ」
「わたしはなんとなくおとこの子のような気がする」
「きっとかわいい子だね」
「うん、とってもかわいい子だと思う。足音がかわいいもん」
「おかあさんとふたりでがんばってるんだね」
「そうだね、やさしいいいおかあさんだといいね」
「だいじょうぶ、きっといいおかあさんだよ」
「・・・・・」
話してる間に咲は眠ってしまって、途中から返事の代わりに寝息が聞こえてくる。「ピコ、ピコ・・・」もしだいに遠ざかって夜の中に消えて行った。

ピコピコサンダルを履いてお団子を食らう私の長男・デン兵衛。ピコピコサンダルは「うるさい、ダサイ」という批判もあるらしいが、自分にこどもが生まれたらぜひ買ってあげようと思っていた。右奥の木が、映画館の塀にしがみつくように生えていた、わたしが 嫌いだと言った夾竹桃である。
売春禁止法によって転業を余儀なくされた銘酒屋の半分近くがバーやキャバレー、飲み屋といった何らかの水商売に転業した。徐々に廃業に追い込まれていったとはいえ、5年以上経ったこのときもまだ50軒ほどのバーや飲み屋があった。
玉の井周辺には鐘淵紡績とか住友ベークライトなどの大工場をはじめ中小工場が林立していたので、それなりの客足はあったようだ。
ピコピコサンダルを履いていなければ気付かれないだけで、玉の井にはこの子やしおりのように、母親が働いているあいだ、周辺のどこかの家に預けられている子がたくさんいたのである。実際、そういう子を預かって家計の副収入にしている家がわが家のまわりにもいくつかあった。
お店の上が経営者の住まいになっていて、そこで寝かされている場合もあったが、上からこどもの泣き声が聞こえてきたのではお客は気分を害するし、母親の方だって気が気ではないから、ほとんどは伝手を頼ってバー街から離れた堅気の家をみつけて預けることになる。
わが家にも、ひとり預かっているのならついでにもうひとり・・・と話が持ち込まれたことがあったが、母はこどもふたりはとても無理だと断っていた。ひと晩の預かり賃は500円だそうで、わが家の一日の内職代の2倍以上である。
よその子を預かればそれだけの収入になるのにと、わたしは多少うらめしい思いで頼みに来た人と母との話を聞いていた。
この子のように歩ける子は歩いて、歩けないような小さい子は母親に背負われて、深夜暗い夜道を家路につくのである。
こどもは眠っているところを起こされて寝ぼけまなこでもうろうとしながら歩いていることだろう。暖かい寝床からいきなり外に連れ出されて、冬の夜はさぞかし寒かろう。
それでもきっと母親の手をしっかりにぎりしめて懸命に母親と歩調を合わせていることだろう。母親の手を握るこどもの小さな手が目に浮かんでくるようだった。
「ガンバレ、ガンバレ」
わたしは遠ざかってゆく足音を耳で追いながら、だれだかわからないそのこどもと母親にひそかに声援を送る。
「ピコ、ピコ、ピコ、ピコ・・・」
時々はその足音があまりにけなげで哀れで、聞きながら思わず涙がこぼれてくることがあった。
「ガンバレ、ガンバレ、まけるな、まけるな」
そしてまた時には、半ば切なく半ば幸せな気分で夢うつつの中で聞いていたこともあった。
「ピコ、ピコ、ピコ、ピコ・・・」
わたしにはそれが若い母親とちいさなこどもが寄り添いながら懸命に生きている証の音のように思えたのだった。
ピコピコサンダルの音はいつのまにか聞こえなくなってしまった。母親がバー勤めを辞めたのか、よそに鞍替えしたのか、あるいは、ピコピコサンダルが壊れて、ふつうの履物に代えてしまったのか。
どこかでピコピコサンダルの音を耳にするたびにあの夜々のことを思い出し、あの親子はどうしたろうか、しあわせに暮しているだろうかと考えるのである。
そういえばほんのいっときだったが、正子伯母の家でもこどもを預かっていたことがあった。
ユキちゃんという2歳半くらいのおんなの子で、肌が透き通るように白くてきれいな顔立ちの子だったが、癇が強くていったん機嫌を損ねて泣き出すと手の着けようがないほどになってしまう。
まっ白な額に青筋が何本も浮かび上がって、このまま泣き過ぎて死んでしまうのではないかと心配になったほどだった。
のんきな正子伯母もユキちゃんの夜泣きにはすっかり参っていて、「今さら断るわけにもいかないし」とよくこぼしていた。
ユキちゃんママはユキちゃんの父親と親権を争っていて、結局裁判に負けて、ユキちゃんは3ヶ月ほどで父親の郷里に引き取られて行った。鳥取だか島根だか、とっても遠いところだった。
どんないきさつがあったかはわからないが、ユキちゃんかいなくなってからユキちゃんママはわが家の隣のアパートに引っ越してきた。ちょっとガラっぱちなところのある小柄なかわいい顔のひとで、わたしは挨拶くらいしかしたことがなかったが母とはずいぶん親しく行き来していた。
こどもを他人に預けてバー勤めをしているようでは裁判に勝てるはずもなかろうが、母親にとってこどもと引き離されるほど辛いことはない。ユキちゃんがいなくなってからしばらくは、顔を合わすのも気の毒なくらいだった。
ひとりになってから2年ほどして、以前からお客としてお店にやって来ていたひとと結婚することになった。ずんぐりした丸まっちい顔の、お世辞にもハンサムとは言えないようなおじさんで、ユキちゃんママには似合わないとわたしはちょっとがっかりだった。
「人間はひと柄がイチバン。ユキちゃんがいなくなってから寂しい寂しいってそればっかり言ってたけど、これであのひとも寂しくなくなる、ほんとうによかった」
母は自分のことのように喜んでいた。
が、そろそろお店も辞めて・・・と話が具体的になってきた矢先、ユキちゃんママはガンで入院して2カ月もしないうちに死んでしまった。まだ30歳にもなっていなかった。
ユキちゃんママは「バイバ〜イ、バイバ〜イ」とそればかりを繰り返しながら息を引き取ったそうだ。
臨終に立ち会った母からその話を聞いて、最後に別れたときのユキちゃんの姿が瞼に浮かんでいたんだろうかと思うと、あまりに哀れで切なくて涙が止まらなかった。
あれからユキちゃんはどうなっただろうか。おおらかとはとても言えない神経の細い子だったけれど、おかあさんがいなくなって、まったく新しい環境にうまく馴染んでいけただろうか。
父親はおそらく再婚し、ユキちゃんは自分を産んだひとがそんなふうに自分のことを思ってくれて、そんなふうに死んでいったことを知らないままおとなになったことだろう。せめてユキちゃんを取り巻くのがこころ温かいひとたちであってくれたらと、ユキちゃんママのためにもそう願わずにはいられない。
玉の井の夜にはこの「ピコピコ」のほかにいろんな音や声があった。あっちこっちの飲み屋やバーから漏れてくるへたくそな歌謡曲、酔っ払いが気勢をあげながら歩いてゆく、お寺の塀にオシッコをひっかけている、どこかでけんかをはじめたらしいチンピラややくざが怒鳴りながらばらばらと走ってゆく。
映画館の脇の暗がりからおんなのひとのすすり泣きが聞こえてきて、いつまでもいつまでも止まないこともあった。ときにはおとこがおんなを脅しているともなだめすかしているとも聞こえるような声が聞こえてきて、はらはらどきどきするようなこともあった。
たいがいはあまりうれしくもない迷惑な音や声だったが、思わずにやにや笑ってしまうようなものもあった。
三橋美智也の「哀愁列車」という歌があった。毎週土曜日にやってくるそのおじさんは、「哀愁列車」のさわりの「ほ〜れ〜てぇ〜」だけを歌いながらやってくる。
「ほ〜れ〜て〜、ほれてぇ〜、ほ〜れ〜て〜、ほれてぇ〜」
そればかりを延々とくり返しながら歩いてくる。その声はいろは通りの向こうから聞こえてきて、徐々に近づいてきて、わが家の前を通り過ぎ、遠ざかって玉の井の飲み屋街に消えてゆく。
たいがい9時から9時半ごろにやって来て、12時近くにやっぱり「ほ〜れ〜て〜、ほれてぇ〜、ほ〜れ〜て〜、ほれてぇ〜」とそればかり歌いながら帰ってゆく。
その声があまりに陽気で楽しそうなので、わたしと咲は布団の中で笑いながらその声に聞き惚れている。「あ、また、ホレテのおじさんが来た」とくすくすと笑う。

どの店に通い詰めているのかと思っていたら、偶然にも多佳が働いている「ノワール」だった。「そのおじさんがほれてる相手って多佳ちゃんじゃないの?」と聞くと
「ちがうよ、ママだよ」と言う。「それで脈はあるのかい?」と母が聞く。
「ないよ、ママは前のダンナで苦労したから、おとこはもうこりごりだってさ。まぁ、玉の井のおんなでおとこに苦労したことないなんてのはいないけどね」
おじさんは50くらいのおとこやもめで、「ノワール」のママに惚れこんで通い詰めているのだそうだが、それらしきそぶりも見せず機嫌よく静かに飲んで「ほ〜れ〜て〜、ほれてぇ〜」と歌いながら東武線の「最終列車」で帰ってゆく。
おじさんの「ノワール通い」はずいぶん長く続いたが、あるときからふっつりと聞こえなくなった。思いきってママに告白して袖にされたのか、言い出せないままあきらめてしまったのか、それは誰にもわからない。
「ピコ、ピコ」といっしょに、夜空に響くおじさんのあの歌声をときどきしみじみとなつかしく思い出す。