「あいつが結婚しちゃった」
ある日の昼日中、多佳がふらふらっと入ってきて、上り框にぺたりと腰をつけて、こんなことを言った。化粧っけもなく髪はぼさぼさ、いつもの多佳とは別人のようにみすばらしかった。
意味がわからなくて母は「へっ?」とだけ言った。わたしにももちろん何のことかさっぱりわからなかった。
「だから、あいつが結婚しちゃったのよ」
多佳か同じ言葉をくりかえした。
「何言ってるのよ。誰が誰と結婚しちゃったっていうのさ?」
「あいつよ、喜一に決まってるじゃないの。喜一が他のおんなと結婚しちゃったんだって」
「他のおんなってだれのことよ?」
「さあねぇ、どうせリリ子あたりじゃないの。あいつリリ子に言い寄られてすっかり鼻の下伸ばしてたからさ。なにがリリ子よ、ふざけた名前付けやがって。ほんとはさ、ますこって言うんだってさ。しかも一升枡の枡でさ。笑っちゃうよマッタク」
「なんのことなのか、わたしにはさっぱりわからないよ」
「だからさ、あいつがさ、結婚したんだよ、リリ子と。今さっきあいつの飲み友達から聞いてきたんだ。昨日結婚式をあげて、そのまま伊豆に新婚旅行に行っちゃったってさ。へっ、何が新婚旅行よ、新婚旅行って柄かよ、あいつが」
リリ子というのは「プリンス」という名前のバーでしばらく前から働きはじめたおんなで、喜一になびいている何人かのひとりだった。喜一もまんざらでもないようすで、多佳は本気でやきもきしていたのだった。
わたしも一度だけリリ子を見かけたことがあった。酒屋の前の公衆電話で、わたしの前にいたのだった。電話口で相手に向かって「あたしよ、リリ子」と言ったので、わたしは自分の恋敵に出会ったような気がして、どきっとした。
「あたし、今ねぇ、玉の井村に来てるのよ。昔馴染みのママにどうしてもって頼まれちゃって。ねぇ、たいしたことないところだけど、ぜひ遊びに来てよぉ。
うん、そうそう、そうなのよ。えっ、そりゃあたしほどの子はいないけど、けっこう可愛い子が揃ってるわよ。
うん、ママとあたしのほかに3人いるの。待ってるわぁ、ぜひいらしてぇ」
とまぁ、女給としての営業活動をしていたわけだったが、その口ぶりが堂々としてなかなかのやり手といった感じで、しかも今風の垢ぬけたなかなかの美人だった。
わたしは「玉の井村だなんて失礼しちゃうわ」と思いながら、多佳に肩入れしてリリ子の背中を睨みつけていた。多佳がいくら向こうっ気が強いからと言って、水商売のプロにはかなわないかもしれないと思った。
ふたりのばか騒ぎには慣れっこになってはいても、これには驚いた。
「だって、あんた、しょっちゅうきいっちゃんに会ってたんだろ」
「そうよ、三日前に会ったばかりよ。あいつ最近ここがすっかりいかれちゃっててさ」
多佳は自分の頭をとんとんと叩いて見せた。
「とにかく、これからちょっと行ってくるわ」
「行ってくるって、どこへ?」
「決まってるじゃない、あいつらが泊ってる旅館よ。行って話をつけてくるわ。熱海だってさ。お宮寛一じゃあるまいし、ちゃんちゃらおかしいわい。さっき喜一のおふくろを締めあげて聞き出して来たのよ。あのおふくろもおふくろだわ。わたしのこと知ってながら、よっぽどわたしが気に入らないのよ。わたしでなきゃどんなおんなでもいいと思ってるんだ」
「それで、これから熱海に行って来ようっていうの?」
「そうよ、いっちょまえに熱海の温泉だって。聞いてあきれらぁ、わたしなんか日帰りの旅行にさえ連れて行ったことないくせに、ああ、腹が立つ」
多佳は腹立ちまぎれに自分の髪を掻きむしる。長い髪がさらにほつれてまるで山姥のようになった。
「でもねぇ、新婚旅行先まで追いかけてゆくって言うのもねェ」
多佳の剣幕に圧倒されて、母が遠慮がちにぼそぼそと言う。
「何言ってるのよ、おばさん。変なこと言わないでよ。喜一が他のだれと結婚できるっていうの。あいつと結婚するのはこのわたしよ。なにが新婚旅行よ。なにが熱海よ。ああ、冗談じゃない。あの野郎、ばかにしやがって。会ったら、ただじゃおかないから」
多佳はやってきたときの意気消沈したようすとは打って変わって声高にまくしたてるといきなり立ち上がり、バッグも持たずに飛び出して行った。
「ちょっと、ちょっと、多佳ちゃん、そんな手ぶらで、お金は持ってるの?」
母があわてて多佳を追いかけた。
「だいじょうぶ、お金はちゃんと持ってる。ごめんねぇ、おばさん、心配かけちゃって」
「あんまり、むちゃなことするんじゃないよぉ」
「わかってるよ〜〜〜」
多佳の声が遠ざかって行った。
「きいっちゃん、ほんとうに結婚しちゃったのかなぁ」
結婚式とか新婚旅行とか、ましてや結婚そのものがそんなにいいかげんに行なわれるというのがわたしには不思議だった。
「さあね、あの連中のすることはわけがわからないよ。多佳ちゃんが聞いてきたことだってどこまでがほんとうなんだか。ほんとにまったく、あきれたもんだ」
そう言いながらも、母は思案顔で多佳が消えて行った先をいつまでも見送っていた。
多佳がほんとうに熱海まで行ったのか、熱海に行ってふたりが泊っているという旅館に行きついたのか、行った先でふたりに会えたのか、そのふたりとどんなやりとりがあったのか、もし、ほんとうに多佳が宿に押し掛けて行ったのなら、宿の人たちはどんなにびっくりしたことだろう。多佳と喜一とリリ子の3人で、どんな修羅場を演じたのだろうか。
それ以前に母が言ったように、喜一がほんとうに結婚式をあげて新婚旅行に行ったのか、それさえほんとうのところはなにもわからなかった。
相手のおんながほんとうにリリ子だったのか。リリ子だったらそんなにあっさり身を引くなんてことがあるだろうか。わたしたちには何もかもわからないことだらけだった。
「わたしたち」と書いたが、母はもう少しちゃんと知っていたかもしれない。わたしがここに書いていることはわたしが実際見聞きしたことと、母や正子おばや近所のおばさんたちの井戸端会議から聞きかじったこと、その断片から推量したりしたことだけだったから、わたしが知っていたのは喜一たちのことはもちろん、玉の井界隈で起こったことのほんの一部分でしかなかったろうと思う。
中学生のわたしは、母たちから見ればただのこどもでしかなく、こどものわたしに話さないでおいたことも数多くあったにちがいないし、わたし自身も、このあたりのおとなたちのああだこうだにそれほど興味津津で情報網を張っていたわけではなかったのだ。
というわけで、喜一たちの詳しいいきさつに関してはわたしはまったく「蚊帳の外」だったのだけれど、ともかくも、それから間もなくふたりはほんとうに結婚した。結婚式も新婚旅行もなかったが、籍だけはちゃんと入れた。
ところがこの結婚にあたって、多佳が「よし川」の財産に関する権利をいっさい放棄するという一札を書かされた。それがまた悶着の種になった。
「わたしは別に財産がほしいわけじゃないのよ。いもうと達が欲しいっていうんならそれこそ熨斗付けてくれてやるわよ。たださ、わたしにそういうものを書かせるあいつらの気持がいやなの。喜一があんな風だから警戒してるんだろうけど、喜一ってそんなおとこじゃないわよね。飲んだくれの半やくざだけど、ひとの財産を当てにするようなケチおとこじゃないわ。ねぇ、おばさん、実のむすめにそんなもの書かせる親がどこにいる?」
多佳は家族と喧嘩するたびにうちにやって来ては母を相手に息まいた。その多佳のあとを追って、多佳の母親やいもうとがやってくることがあった。
「ちょっと、さっきのいい草は何よ!わたしたちがいつあんたを邪魔者にしたっていうのよ!」
高級料理屋の女将さん、お嬢さんとは言っても、そこは多佳の家族、似た者同士なのだ。うちの店に飛び込んでくるなり、そこに突っ立ったままいきなりそんなふうに怒鳴りはじめる。
「おとなしく聞いてりゃいい気になって。アンタにあんなこと言う権利がどこにあるって言うんだい。これまでだってアンタのことじゃどれだけきりきり舞いさせられたことか。 まったく、たちが悪いったらありゃしない」
「ふん、おあいにくさま。その、たちが悪いこのお嬢さんはね、アンタのお腹から生まれてきて、アンタが育てたんじゃないか。そういうのをね、身から出た錆っていうんだよ」
「まぁ、この子ったら、親に向かって、よくも、よくも」
母親は今にも多佳に飛びかからんばかりに地団太を踏んでいる。母親もいもうとも多佳によく似た甲高いよく通る声の持ち主で、その上、周囲の目にまったく無頓着なところもそっくりだった。通りを行き過ぎる人がびっくりして立ち止まって見ているのもかまわず、こんなふうに店の中で大声でやりあっている。
これが多佳と喜一だったら母も怒って追い出すところだが、多佳の家族となるとそうもいかない。奥に控えてあきれ顔で眺めているしかなかった。
多佳の家族はそろって器量自慢だったが、とりわけすぐ下のいもうとの佳恵さんは多佳もかなわないほどの美人だった。多佳を花にたとえるならパッと華やかに咲き誇る芍薬で、佳恵さんはどちらかといえば冷たい感じの、しんと静かに咲く白百合のようだとわたしは思っていた。道ですれちがいざまににっこり笑いかけられたりするとうれしくて浮き浮きしたものだった。
佳恵さんはいもうとたちのなかでとりわけ姉思いで、思う分だけ腹も立ったにちがいない。そのふたりが目を吊り上げてあたりはばからずののしり合う姿は、現実離れしたお芝居の一場面を見ているようで、わたしも母と同様、ただ茫然とながめていた。
「ちょっと、ねえちゃん!」
そう言いながら佳恵さんは店先に飛び込んでくる。佳恵さんは多佳を「ねえちゃん」と呼ぶ。「ねえちゃん」という言い方がとびきり美人の佳恵さんにはまったく不釣り合いで、その不釣り合いなところがわたしにはおかしくて、それはそれで惚れ惚れといい眺めだったのだ。
しかし、多佳と喜一の結婚生活は4ヶ月しか持たなかった。結婚にあたって、喜一は線路の向こうにあった長屋から、新小岩のアパートに引っ越した。ふたりだけかと思ったら喜一の母親もいっしょだった。
ふたりだけでも争いごとが絶えないのに、二間しかない狭いアパートに喜一の母親まで加わったのではうまくやって行けるはずはなかった。
多佳は喜一のところを飛び出しては見たものの「よし川」とは縁切り状態だったから、行くあてもなく、つてを頼って隣町のちいさな町工場の二階に間借りして、その工場で働きはじめた。
「喜一が探しに来るようなことがあっても、ぜったいにわたしの居場所を教えたりしないでね」
多佳は真顔で母やわたしたちにしつこいくらいに念を押したが、本気で喜一に探されたくないと思っているようにも見えなかった。
多佳が間借りした機械屋は学校へ通う道の途中にあったので、ときどき覗いてみると、およそそんな仕事には不似合いな花柄のアッパッパなどを着て、髪をふりみだして「けとばし」をやっていた。

これが「蹴飛ばし・フットプレス」
蹴飛ばしというのは打ち抜きや、曲げ加工をする機械で、足でペダルを蹴飛ばすように踏みつけ、その反動でプレスや型抜きをするのでこの名前がついている。けっこうな力仕事だったし、ましてや多佳のような年ごろのおんながやるような仕事ではなかった。
下町一帯にはこの蹴飛ばしを1台から数台置いた零細工場が無数にあって、多佳が間借りしたのもそんな工場のひとつだった。
「どういうつもりであんなことをはじめたんだか。いくら金になるからって言ったってヤケを起こしてるとしか思えないよ。今に身体でもこわすのが関の山だ」
母はときどきようすを見に行っては、やれやれといった顔でまたまた深いため息をついていた。