啓運閣から鐘の音が聞こえてきた。
啓運閣の勤行はお坊さんが病気でもしていない限り毎朝6時半と夕方4時から30分ほどつづく。
読経の声に木魚と太鼓と鐘と拍子木のようなものを叩く音が加わって、ポクポク、ドンドン、カチカチ、カシャカシャとまるでお祭りでもはじまったようなにぎやかさだ。
お坊さんが太鼓と木魚を、そのうしろでおばあさんが鐘と拍子木を鳴らしている。
「あらっ、もう、こんな時間か。まだ仕込みが半分しか済んでなかったんだ。
あっ、そうそう夕べはきいっちゃんと多佳ちゃんがふたりそろってやってきたよ」里子さんが立ちあがりながら言った。
「おや、宵の口からふたりそろってなんて、そりゃあめずらしい」と、母。
「喧嘩してなかった?」と、わたし。
「してなかったねぇ。『お里』のごちそうをぱくついてたら喧嘩してるひまなんかないからね」
「そうかぁ、喧嘩してるどころじゃないか。里子さんの料理はあのふたりの喧嘩も止めさせてしまうほどのパワーがあるんだね。うちには喧嘩するためにやってくみたいなもんなのに」
喜一もいつのまにか「小料理 お里」の常連になっていた。お里にいるかぎり目が座ってしまうほどの深酒をするようなことはないらしい。
「ねぇ、すずちゃん、あさって日曜だろ。咲ちゃんといっしょに昼頃『お里』においで。お昼を食べながらおせんべいを焼いてみようよ。おもしろいよ、きっと」
手提げにたばこを戻しながらそう言い残して里子さんは帰っていった。
「ねぇ、おかあさん、荷風せんべい、売れるかなぁ」
天井を見つめたまま隣に寝ている母に声をかけた。
顔の半分まで毛布をかぶった母からの返事は返ってこなかった。いつでも、どこでも、どんなときでもあっという間に眠ってしまえるのが母の特技のひとつだった。
母と咲がひとつの布団でいっしょにくるまっているのは父が戦場から持ち帰ってきた軍用毛布だ。
毛足などまるでないごわごわしたいやな手触りのいやな色の毛布を10年以上たった今もまだ使っている。
窓のすぐ向かい側にある街灯のせいで部屋の中は電気を消しても真っ暗にならない。
天井板の木目模様がうっすらと浮かび上がって見える。木目は見ようによってはひとの顔になったり動物になったり幾何学模様になったりする。時には節がみんな目に見えて怖いときもある。
荷風というひともこんなふうにここに横になってこの天井を見ていたことがあったのだろうか。
そう考えてみても何の感動も沸いてこず、感動しない自分にちょっとがっかりもしたが、それよりなによりわたしには荷風せんべいのほうが重要だった。
荷風せんべいが売れたら、とわたしは思った。
そしたらまずこの窓をふつうのガラス戸に変えよう。それからきれいなショーケースを買ってだれに見られても恥ずかしくないようなちゃんとしたお店にしよう。大きくなったらスクーターを買って母の代わりに仕入れに行ったり配達をしたりしよう。
生まれながらに店屋のこどもだったわたしには、お店をやっていく以外の選択肢は考えられなかった。未来永劫この駄菓子屋と縁が切れないものだと思っていた。
わたしはこの町をふるさとだと思ったことはなかった。ふるさととは歌にあるように山があったり海があったり、川や森があったりして、野山を駆け回ったり川遊びや魚釣りができるところだ。
自然の生き物と言ったら蚊とハエとどぶねずみくらいなもので、蝶やとんぼだってめったに飛んで来はしない。空だって四角や三角に切り取った細切れの空しか見えないのだ。
家の前に立ってぐるりと見渡して唯一見える草木と言ったら、映画館のモルタルの壁にくっつくように生えている萎びた夾竹桃が一本だけ。それでも夏になると赤い花をいくつも付けた。
わたしはこの花が好きになれなかった。アスファルトとモルタルの壁の照り返しの中であえぐように咲いているのを見ると、心がなごむどころかその姿があまりに侘しくていっそう気がめいった。
毒性があって乾燥や大気汚染に強い植物だと知ってからはいっそう嫌いになった。ここがいかに殺風景でひどい土地かをことさら強調しているような花の赤さが不快だった。
ここのこどもたちの遊び場と言えば狭い路地裏だけで、それでもこどもたちはつぎつぎ新しい遊びを発見して、路地には一日中こどもの声があふれている。
かくれんぼに鬼ごっこに缶蹴りに。おとこの子にはおとこの子の、おんなの子にはおんなの子の遊びがあったけれど、ときには両方がいっしょになって、大変なにぎやかさになった。
わたしにはこの路地裏のこどもたちがちょっと苦手だった。父が買ったわたし達が住む表長屋にはわたしの遊び相手になるような同年代のおんなの子がいなかった。
だから遊ぶとなるとこの裏長屋の路地に出向いていかなければならないのだが、裏長屋には裏長屋としての結束というのがあった。
彼らの連帯感はとても強く、わたしはいわばよそ者で、どことなく浮いた存在だった。
路地裏の遊びはときにはそれなりに楽しいこともあったが、たいがいはほかのこどもたちのように遊びに夢中になれず居心地が悪かった。
それならいっそ家にいてひとりで本を読んだり絵を描いたりしているほうが気が楽だった。
そのくせ遠くからこどもたちのさざめく声が聞こえてきたりすると、自分だけが別の世界に生きているような、日の当たる明るい世界から外されてしまっているような裏わびしい気持になるのだった。
ほんのときたまうまく仲間に入れて遊べることもあった。めいっぱい遊んで夕暮れになって息を弾ませて「ただいま」と勢いよく店先に飛び込んでゆくと、母は「あら、今日は遊べたんだね、よかったね」と喜んでくれた。しかしそれはやはりほんのときたまのことでしかなかった。
あの路地裏のこどもたちのようだったら、この町を懐かしいふるさとと思うことができるのだろうか。
母や里子さんには語っても語っても語りつくせないほど、ときには涙さえ浮かべて懐かしむふるさとがあるのに、自分はおとなになってもこどもの今を懐かしむことはないだろう。
通りの奥からボリュームをいっぱいに上げた音楽に合わせてへたくそな歌謡曲が聞こえてくる。
銘酒屋がなくなっても騒がしいのはあいかわらずで、騒音は毎晩12時過ぎまであたりまえにつづく。
いつもは腹立たしくうるさいとしか思えないその騒がしさも、今夜は許してあげてもいいように思えた。
荷風せんべいが売れたら、わたしはこの言葉をもう一度反芻してみた。荷風せんべいが売れたら、わたしも一足新しい靴を買ってもらおう。
翌々日、わたしは咲を連れて、意気揚々と「お里」に出かけていった。
ガラス戸を開けると狭い店の中に、炭が焼けるにおいが立ちこめて、カウンターの上にはお里さんとわたしと咲の3人分のお昼が乗ったお皿が3枚並んでいた。
この日里子さんが作ってくれたお昼は、小さめに握ったおにぎりが三つと桜えびと三つ葉の入った出し巻き卵とほうれん草のくるみ合え。それに昨日の残りだというつくねがわたしと咲のお皿にだけ一本ずつ添えてあった。
おにぎりの中身は「お楽しみ」だそうで、食べるまで何が入っているか分からない。
ひとつ目は干し梅としらすの合えたもの、もうひとつはおかかをまぶした刻み昆布、みっつ目には甘辛く煮た小さなイカの天ぷらが入っていた。
これがほんとうにおいしくて、わたしと咲は思わず声をそろえて「おいしい〜〜〜」と叫んでしまったほどだった。
「これはお店にも出しているの?」と聞くと、イカがちょっとだけ余っていたので思いつきで作ってみたのだと言う。
「これはぜったいみんな美味しいって言うと思うよ。出してみなよ。甘辛天ぷらのおにぎり。きっと『お里』の新名物になるよ」
今思うと、あれが元祖「天むす」だったのだろう。
「これはほんとうのおせんべいじゃなくて間に合わせだけど」
と言いながら、里子さんはおにぎりを目いっぱいほおばって口をもぞもぞさせているわたし達の前に白くて丸い板のような「おせんべいのもと」を差し出した。
ほんとうのおせんべいはお米の粉を捏ねて蒸して乾かして・・・とけっこう手間をかけるのだそうだけれど、そんな時間もなかったから残りご飯を突いてお餅みたいにしたのだそうだ。
それにまだすっかり乾燥しきってないからできそこないのおせんべいにしかならないかもしれないという。
「うちのおばあちゃんが作ってくれたのは残りご飯のおせんべいだったよ。残りご飯だって新潟のお米はおいしいもの」そう言いながら里子さんは土間に置いた七輪の上にその「おせんべいのもと」を並べはじめた。
「わたしもやりたい、わたしにやらせて」咲がそう言って椅子から飛び降りた。
「わたしも、わたしも」わたしもそう言いながら咲につづいて椅子から飛び降りた。
おせんべい作りはものすごく楽しかった。
こまめに裏返さないとおせんべいはすぐに焦げてしまう。おせんべいはくねくねと身をよじらせて変形しながら膨らんでゆく。
咲といっしょに箸を使って夢中で「裏返し、裏返し」を繰り返す。
勢い余っておせんべいが土間に転げ落ちる。うっかり手でつかんで「あちち・・・」と手を振ったらおせんべいがふっとんでお店の壁に激突した。
大笑いしてる間に他のおせんべいが焦げだして煙を上げ始めた。お煎餅の焼けるいい匂いがお店の中いっぱいに広がって行った。
ひととおり火が通ってこんがり焼き色のついたところに刷毛でお醤油をひと塗りするとおせんべいのできあがりだ。
お醤油を塗るといっそういい匂いになって、咲とわたしは思いきり深呼吸して、その匂いを胸いっぱい吸い込んだ。
「ああ、いい匂い」 咲が指先にくっついたお醤油をなめながら言う。
「おいしくって、あったかくて、楽しい匂いだね」とわたしが言った。
「田舎の炉端を思い出すよ。おばあちゃんの顔も。10年くらい前に死んじゃったけど、ものすごいしわだらけのおばあちゃんだったんだ」
里子さんが器用に刷毛を動かしながらしみじみと言う。わたしも何年か前に80過ぎで死んだしわだらけの田舎のおばあちゃんを思い出した。
冷めるのを待ってかぶりついたおせんべいのおいしかったこと。このときのおせんべいには大豆もピーナツもゴマも何も入っていなかったけれど、それでも顎の奥にじいんと響くくらいおいしかった。
これにうちの、太田垣の豆が入ったらどんなにかおいしいだろう。
「荷風せんべい、できるね」とわたしが言うと、「もちろんできるさ」と里子さんが笑いながらそう答えた。
目尻の下がった里子さんの笑顔は、わたしにはまさに福の神そのものに見えたのだった。
しかし、しかし、いいことは続かないものなのである。
かつて運命の女神が順風満帆の「北川炒り豆店」から父を奪ったように、今回も運命の女神はわたしたちから里子さんをもぎ取って行ったのだった。