
母の奉公先のご家族。戦前の典型的な恵まれた中流家庭。山出しの極貧育ちの母がこの家の一員として迎えられたときの感動はいかばかりだったか。3人の子どものひとりひとりにお付きの子守りが付けられて、母はまん中のぼっちゃんの担当だったそうだ。3人とも文句なしに可愛くていい子たちだったという。出入りの呉服屋さんがやってくると母たちもみんな座敷に呼ばれて、好きな着物や帯を選ばせてくれ、それが給金から差し引かれるなどということは一度もなかったとか。この家での8年ほどの奉公が、母の人生の最大の幸運だったと言える。後年、 貧窮のあまり質屋行きになった着物の大部分はこのときに誂えてもらったものだった。
「それじゃあ色紙とかそんなものが残ってるんじゃないかね。よくあるじゃないか文章書きや絵描きが、世話になったお礼にってちょっと一筆書いて行く話がさ。そんな偉い人の色紙の1枚2枚もあったらいいお金になりそうじゃないか」
「そうかもしれないよ、2階のタンスのなかに掛け軸みたいなのがたくさんあるじゃない。あのなかに混じっているかもしれない。わたし、持ってくる」
「さあねぇ、そんなものなかったと思うけどねェ」
母の言葉を無視してわたしは勢い込んで階段を駆け上って行った。
物置になっている小部屋の古ダンスの中に太郎次が遺した掛け軸やそれに類するものがひと抱え入っていた。もしかしたらそのなかに荷風の書いたものが紛れ込んでいるかもしれない。
里子さんの言うようにそんなものが1枚でもあったら、たとえ一時しのぎであってもどんなにか助かるだろう。
家の暮らしはそうとう苦しくなっていた。太田垣の豆はまだ置いてはいたが売れ行きはますます悪くなって、もんじゃ焼きの代わりにおでんをはじめて夏にはさらにかき氷もやって、それでも足りなくて内職までやるようになった。
おむつのフック付けや封筒張り、マッチのラベル張り、どれもひとつ1円にもならない手間賃で、母とふたりでひと晩100円か150円、多くて200円がやっとだった。
住む家があってなんとか食べてさえいければじゅうぶん幸せと母は言うが、いくらかでもお金を手にする方法があったらどんなにかうれしいだろう。
中学も制服も学生かばんもみんないとこのお下がりですませている。そんなことはちっとも気にしないとは思っても、真新しい制服、真新しいカバンの中にいればやっぱり気後れしてしまう。
靴だってつま先が擦り切れて、雨が降ると水がしみ込んでくる。それでも母に新しいのを買ってくれとは言えなかった。
包みのなかに荷風が書いたらしいものは何もなかった。掛け軸や色紙の類には「天保」や「慶応」の銘が入っていたが、絵もうまいのかへたなのかさっぱりわからない。太郎次に金を借りたその代わりに置いていったもので、駄ものばかりだと母が言った。
「なんだ、何もないのか。しかし、けちくさいねぇその先生も。ちょっと一筆書いてくれたら貧乏人がどんなに助かるかしれないのに。こんな話を聞いたことがあるよ。貧乏な百姓屋にひと晩厄介になった貧乏絵描きがさ、お礼に襖に絵を描いて行くんだよ。そしたらその絵描きが描いたすずめが動き出して、チュンチュン鳴きながら絵の中を飛び跳ねる。それがえらい評判になってその百姓はあっという間に金持ちになったって。一宿一飯の恩義ってものがあるだろ。たった一晩泊めてもらったってそんなお返しをするひともいるっていうのに、なんにも置いていかなないなんて、ほんとにしみったれてるよ」
ほんとうにその通りだと思った。荷風の書いたものじゃなくても、この中になにかひとつでも何がしかの価値のあるものだったらよかったのに。
「そうは言っても昔の年寄りだもの、そんな物の価値もわかろうはずもない。書いてくれとも頼みもしなかったんだろうよ」
里子さんの話を笑いながら聞いていた母ははなっからそんなものを当てにしていないようすだった。
「そうかねぇ。でもさぁ、その乞食絵描きだって描いてくれって頼まれたから描いたんじゃないんだよ。ここのおじいさんはいいひとだったんだろ。そういうひとに対してさ、何か気持ちを表すものを置いて行ったってよさそうなものじゃないか」
里子さんはどうにも納得がいかないといったようすでぶつぶつ言いつづける。
「せっかくだもの、なにかいい金もうけの方法がないかねぇ」「いいよ、そんなに一生懸命考えてくれなくても。そんなどうだかわからないものをあてにしたってしょうがないもの」
「でもさぁ、せっかくおもしろい話が舞い込んできたんだから、写真が載りました、ハイそれで終わりじゃつまんないよ。
いっそ荷風だんごとか荷風まんじゅうでも作って売りだすか。とびきり有名な作家なんだろ。言問団子とか長明寺のさくら餅とか、このあたりにもそんな名物があるじゃないか。それとおんなじだよ」
荷風だんごに荷風まんじゅうか。荷風が知ったらさぞかし気分を害するだろう。荷風のファンも怒るかもしれない。
「おまんじゅうやおだんごは悪くなりやすいからお煎餅のほうがよくない? お煎餅だったら売れ残ってもそうすぐには悪くならないし」
わたしもすっかり里子さんに乗せられてしまっている。
「荷風せんべいか、いいねぇ、なにかこう風格があっていかにもうまそうじゃないか。煎餅だったらわたしにも作れそうだ。むかしうちのおばあちゃんが焼いてくれたことがあったよ。囲炉裏の火でゆっくりていねいに焼いて、ちょっと煙の匂いがして、焦げたしょうゆが香ばしくてさぁ。わっ、思い出しただけで生唾がでてきちゃったよ」
里子さんはふふふと笑いながら口元を片手で押えた。こんがり焼けたお煎餅の匂いがあたりに漂ってきたように思えた。
「それでね、ただの醤油せんべいじゃつまらないから何か他とちがった工夫をしたほうがいいよね。豆入りにするとか」
「おや、さすがに豆屋のむすめ。そうそう、そういうひと工夫がたいせつなんだ。ついでに話も作っちゃったらいいよ。ここのおじいさんは米屋だったんだろ。豆は、そうだねぇ、米屋のじいさんが作るんだからありふれたところで、大豆でいいだろう。
新潟の上等な米を挽いて、砕いた大豆をまぶしてせんべいにしてお出ししたら、荷風センセイことのほかお喜びになって『わたしは平素こういうものは口にしないのだが』なんぞとおっしゃりつつ5枚もお召し上がりになった、なんてのは、どう?
ほんとにあったような話に聞こえるじゃないか。『家風せんべいの由来』なんてただし書きを添えてさ。この家のスケッチをちょこっと隅に入れてもいいね」
「えっ、やだよ、この家はやめようよ」
「あら、どうして? わたしはこの家好きだよ。確かにいくらかぼろじゃあるけど、ぼろさ加減がまたその変わりものの作家先生にぴったりな気がするよ。作家先生がお立ち寄りになられた家というのがこの場合重要なポイントなんだから」
里子さんの話を聞いていると実際に荷風せんべいができてどんどん売れそうな気がしてくる。名前だけじゃなくほんとうにおいしいおせんべいだったらきっと売れる。
里子さんは調子づいて話しつづける。

「荷風好みなんてのがあるかどうか知らないけど渋いリボンで結んで5枚一袋200円ってところでどうだろう。
こういうものはねちょっと高いくらいのほうがありがたみが出るもんなんだよ。
銘菓なんて言われているのはたいした味でもないのに良い値がついてるじゃないか。銘菓だから高いのか、高いから銘菓なのかってなもんでね。
ところがどっこい、荷風せんべいは味も半端じゃない。大豆をまぶしてこんがり焼きあがったところに醤油をさっとひとはけ。いいねぇ、うまそうだねぇ」
「あのさ、大豆だけじゃなくて、ピーナツとかグリンピースとか5種類作って、『5つの味が楽しめる5色せんべい』というのにしたらよくない?」「そうだねぇ、そこはちょっと思案のしどころだ。あくまでここのおじいさんが作って作家先生が食べた大豆せんべいだけにこだわるか、新商品にも取り組むべきか」
里子さんは腕を組んで真顔で考え込んでいる。
「やだね、まったく、まるで見てきたようなことを」
母がたばこをもみ消しながら笑う。
「でもさ、ほんとにあったかもしれないよ。あった証拠もない代わりに、なかったって証拠だってないんだから。だいたいのことはみんなそんなもんだよ。おばさん、せっかくだからやってみようよ」
「やだよ、そんなこすっからいこと」
「へぇ、こすっからいかねぇ」
「おかあさん、ちっともこすっからくなんかないよ、荷風せんべい、作ってみようよ」
わたしは熱心に里子さんの後押しをした。今の暮らしから抜け出せるのであればどんなことでもやってみたかった。中学生の自分にお金を稼ぐ手立てはないが、おせんべいを焼くくらいだったら出来そうに思えた。
母はいつも下ばっかり見てるから、とわたしは思う。たしかにわが家はこのあたりではずっとマシなほうなのだ。路地の奥にはどうしようもなくひどい暮らしをしているひとたちはいくらでもいた。
だからといって下ばかり見てはいられない。学校に行けばそんな最低生活をしているひとたちはほんの一部分でしかない。裕福とは言えないまでもちゃんとした勤め人の親を持ち、ちゃんとした家に住んでそれが当たり前と思っているこどもたちはたくさんいる。小学生のころから母の片腕になって母といっしょにこの店を切り回してきた。内職だっていっしょにやって、それでも靴一足なかなか買えないなんて不公平だ。わたしはそう思って腹を立てていた。
「そうだよねぇ、こすからくないよねぇ。どんな商売もはじめはみんなこんなものじゃないか。『伊勢甚』って佃煮の会社知ってるだろ? うちのお客さんにそこに勤めてるひとがいるんだけど、創業150年とか言ったって初めての商いは橋のたもとで立ち売りだったてさ。しかも材料は隅田川からすくいあげた野菜くずだったんだってよ。伊勢の片田舎から一旗上げようって江戸に出てきた甚兵衛さん、いっこうに芽が出なくて、このまま伊勢に帰ろうか、帰りたくとも一文無し、いっそ川に身を投げて死んじまおうかって日本橋の橋の上からぼんやり川を眺めてたんだって。そしたら折りも折、その日はお盆が明けた翌日で、川に流したお供物のなすやらきゅうりやら人参やらがひとかたまりになってぷかぷか流れてくるのが見えた。

きのうから何も食べていない甚兵衛さん、あら勿体ない、いくらか萎びてはいてもまだ十分食べられそうな。
そう思ってハタと手を打って河岸に走り寄ってつぎつぎ流れてくる野菜をひとかかえ裏長屋に持って帰って煮てみたらこれがめっぽううまかった。
それがつまり『伊勢甚』のはじまりってわけさ。『伊勢甚』のビルの入口には甚兵衛さんのでっかい銅像が立ってるんだってよ。あと100年もたってごらんよ。『荷風せんべい本舗』のビルにおばさんの銅像が立つから」
「まぁ、よくもそんなおかしな話がつぎつぎ出てくるもんだ。あんた、飲み屋なんかやめて講釈師にでもなりゃあよかったんだ。それにしてもわたしの銅像かぁ。死んでから銅像になったってうれしくもなんともないけれど、そうなったらわたしは『女甚兵衛』ってわけだ」
母も里子さんの調子のいい口上に乗せられて笑い出した。
「だからさ、わたしが言いたいのは、血筋がおよろしいの、資産家でございますのとか言ったって、何代か前のご先祖さまにちょっとばかり目端の利くのがいたってだけのことだっていうことさ。
ほんのちょっとした運不運の行き違い。威張ることでもないし遠慮することこともない。
元を辿ればみんなただのサル、サルにお家柄などあるわけじゃないだろ?
はじめから高貴なお方もご長者さまもいやしない。自分がその目端の利く一代目になったらいい。それが二代目三代目になったらもう立派なお家柄だ。そう考えたらちっともこすっからくもなんともないじゃないか。
貧乏人がいつまでも貧乏人でいなきゃならない理由なんてどこにもないんだから。おばさんが社長で、すずちゃんが副社長、わたしは小間使いにでも雇ってもらおうかね。 おっと、そうだ、そうだ、わたしは『料亭お里』の女将さんになるんだった」
「いいねぇ、この家が『荷風せんべい本舗』で『お里』が料亭か。そんなことになったらおもしろいねぇ。ひとの運はどこでどう開けるかわからないものねぇ」
「そしたら、もう、内職なんてしなくていいんだよね」
内職はみじめだとわたしは思っていた。内職の手間賃は三日に一度回ってくるおじさんが腰にぶら下げた巾着袋をじゃらじゃら言わせながら出来高分の小銭をつまみ出す。
おじさんが特に意地が悪そうだったり威張ったりしているわけじゃなかった。ただそれを受け取る時の母がちょっと卑屈に見えて、それを見ている自分にもまた卑屈な気持がわいてくるような気がして、それがとても情けないのだった。
「内職なんてとんでもございませんわよ。こちらは『荷風せんべい本舗』の社長さまでございますのよ」
「これはこれはおみそれいたしました。そういうあなたは『料亭お里』の女将さんでいらっしゃいましたわね」
里子さんと母とわたしは3人で声をそろえて大笑いした。自分たちのこれからにいいことがたくさん待っているような気がした。
「ほら、手のひら返して、おせんべ焼けたかなって遊びがあるじゃないか。あんな遊びがあるくらいだから、おせんべいなんか昔は家でふつうに焼いてたものなんだよ」
里子さんの言葉に、いい加減なことばかり言ってと母は笑ったが、わたしの頭の中にはもう荷風せんべいができあがっていた。