40年以上昔、昭和史を扱った写真集をぱらぱらめくっていて、ふとこの写真に目が止まった。父の顔はほとんど覚えていないのに、なんとなく父に似ていると思って、「お父さんによく似たひとがいる」と母に見せると、母はややしばらくじっと写真に見入った後「おとうさんじゃないかねぇ。そうとしか思えないんだけど」と言った。叔母にみせるとやはり「そうとしか思えない」と言う。
昭和21年6月、南方から復員してきて、船から上がって岸壁で最終指示を待つ復員兵たちだ。父は戦後一度も写真を撮らなかったので、これが父だとすると父のいちばん新しい写真ということになるので、切り抜いてずっとだいじにとっておいた。
わたしが4歳の誕生日を迎えて間もなく、7月の産み月を間近に控えて母のお腹が大きくせり出し始めたころ、父は体調不良を訴えるようになった。
たぶんその頃のことだったと思う。昼下がり、畳の上にこちらに背を向けてゴロンと横たわった父の姿を覚えている。わたしは、部屋の片側に座って、白い半そでシャツを着た父の背中を見つめていた。
昼の時間も惜しんでふかしイモをかじりながら仕事をつづけていたような働き者で、昼間から横になるようなことのなかった人だった。
地元の白髭橋病院で、肝硬変と診断されて入院したのは、いもうとが生まれる半月ほど前で、それっきり父は家に帰ってくることはできなかった。
母がはじめて赤ん坊を見せに病院に行ったとき、すでに父は生まれたばかりのこどもを抱き上げる体力も無くしていたらしい。
ベッドの上から落ちくぼんだ目で見上げながら、泣いている赤ん坊に向かって「ごめんなぁ」と言ったそうだ。
白髭橋病院では手に負えなくなってお茶の水の慈恵医大に移ったのが9月、そこでも手の施しようがないまま11月の末に死んだ。わたしの記憶にはないけれど、最期は骨と皮ばかりで、まるで骸骨そのものだったという。
死ぬ一か月前、隣の長屋の持ち主から話が持ち込まれ、父は蓄えの半分ほどでその長屋2棟を買い取った。
谷中銀座の店をあきらめて、嫌っていた玉の井の土地を買わなければならなかったのは、残念極まりないことであったろうが、ベッドの上に書類をひろげて、「これでおれも土地持ちになった」とうれしそうに言ったそうだ。
父の蓄えの100余万のうちの、3分の一が父の治療費に、3分の一が土地購入に消えた。
いつどうなるか分からない現金で残していくよりは、家賃収入の見込まれる長屋を買っておけば、母子3人の最低限の食いぶちくらいにはなるだろう、おそらく父はそんな風に考えたのだろうと思う。
が、残念ながらこの長屋の収入がわたしたちの助けになったことはほとんどなかった。
下町というのは人間関係が濃厚で義理人情に厚く・・・というイメージで語られることが多い。確かにその一面はあったとは思う。しかし、欲得むき出し、世間体などなんのそのという一面もそれなりに強かった。
6軒の長屋の住人は、戦中戦後のどさくさにまぎれて、正式な契約書も交わさず住み着いたひとがほとんどだった。契約書がないと持ち主の立場はとても弱い。
まして男のいないおんな所帯など鼻からバカにしている。又貸ししてしまったり、勝手に2階を増築してしまったり、母は煮え湯を飲まされっぱなしだった。引っ越してきてはじめて、大家が別にいることを知った新住人もいた。
父が買った時、平均300円だった家賃は、何年たっても据え置きのまま、母は「手入れ一つしてあげられない大家なんだからしかたがない」とあきらめていたが、しまいには家賃収入より税金のほうが高くなってしまい、税金を払えずに家具に赤紙を張られてしまったこともあった。
もちろん底抜けに気のいい住人もいるにはいたが、お金がないからこんなボロ長屋で我慢しているのである。家賃の値上げ交渉などしてもしようのない「ど」付きのビンボー人なのだった。
父が残してくれた土地は、「人に貸すほどの家作を持っている。どうにもならなくなったら売ればいい」という心の支えにはなったものの、実際には母の苦労の種にしかならなかった。
「こんな不幸を遺して死ぬことになるんだったら、戦争から帰ってくるんじゃなかった」
これが、父が母に遺した最後の言葉だったそうだ。
父36歳、母33歳、わたし4歳、いもうとが生後4カ月のことだった。
南方の過酷な戦場から、まさに九死に一生を得たといった感じで帰ってきて、しゃにむに働いて、いよいよこれからという時に死ななければならないとは、さぞかし無念なことだったろう。けれど見知らぬ南の島のどこかで、飢えと苦痛のなかでぼろきれのように野垂れ死にしてしまった無数の兵士たちのことを思えば、たった5年ではあっても平和な時代を自分の夢のために生きて、大病院で当時の最先端の治療を受け、家族に看取られて死んだ父のほうがはるかに幸せだったかもしれない。
父の死によって、わたしたちは玉の井から出てゆく機会をなくしてしまった。