さいたま 観光 食べ歩き <2>
埼玉県グリーンツーリズム推進協議会の幹事会が10月19日(月)飯能市、旧名栗村の「西山荘・笑美亭(せいざんそう・わらびてい)」で行われた。
「西山荘・笑美亭」のご主人、中村さんは当推進協議会の幹事で、今回幹事会の打ち合わせ場所を提供いただき、かつ飯能・名栗地区の観光、見どころを案内、説明をしていただいた。
名栗地区の観光、見どころ情報に的を絞りレポートをしよう。
「西山荘・笑美亭」は入間川に注ぐ名栗川の源流に程近い山間の奥まったところにある。交通は西武池袋線「飯能」駅北口から国際興行バスで約1時間の距離だが、出来ればマイカー利用が便利だろう。
「西山荘」と「笑美亭」は同じ敷地内にある建物だが、「西山荘」は中村さんの義父が建てたもので、現在は主として小学生の団体客向けに開放・活用されている。
「笑美亭」は中村さんの代になって地元・西川材で建てた贅沢な「木組みの宿」として人気のある施設である。
中村さんは「笑美亭」のご主人、そして「このガイドさんに会いたい100人」のなかの一人として紹介されている山岳ガイドという二つの顔を持っている。
<http://www.ecotourism.gr.jp/guide100/11_002.html>
昼間はこのあたりの山を知り尽くしたガイドとして、訪れる客を自ら案内する。夜は一転して手打ちうどんを打ち宿泊客をもてなす。
「笑美亭」から名栗川の源流までは車で数分の近さ、車を止めて急坂を2〜3分も歩けば源流の入り口にたどり着く。山全体が杉と檜からなる森に覆われているが、源流の入り口から先はぶなの原生林が残されている。ぶなの原生林の持ち主は秩父鉄道のオーナーだそうで、杉や檜の人工林造成に反対して、落葉樹の原生林を守り通した。
針葉樹ばかりの単純な植生のなかで、この一画だけが落葉樹林の多様で豊かな姿が保持されている。輸入材に押され、いまや日本全国の山の大半が、痩せて荒れている。山の中は倒木で歩けないほどで、少量の雨で斜面の土砂が流され、倒木が泥とともに道路に流れ出し、とても危険だ。
時間に余裕がなくぶなの原生林の中には入ることが出来なかったが、次回訪問のときの楽しみにとっておこう。紅葉が見られる頃はどんな景観を私たちに披露してくれるのだろう。
源流とブナの原生林を案内してもらう前に昼食として自前でピザ作りを体験した。
立派なピザ焼き釜が据えられ、一度に8枚を焼くことが出来る窯だ。300度に熱せられた窯にピザを入れること数分、アツアツの手作りピザが出来上がる。トマト、ハム、ムラサキタマネギ、2種類のキノコ、バジルの葉とチーズをトッピングしたピザは格好のビールのつまみになる。
ここではピザ作りの体験、味噌作りの体験に加え、庭に自生していたこんにゃく作りの体験も出来る。夏は目の前の清流で川遊びが出来るし、秋にはブナの紅葉と原生林をトレッキングするのも楽しい。
そして「西山荘・笑美亭」の宿泊のもう一つの楽しみは、オーナー兼調理人の中村さんの作る、地元産食材をつかった素朴な料理と、この土地の民話、歴史を熟知した語り部としての中村さんの魅力だ。
土地のことを知り尽くした案内人がいるといないのでは、旅の面白さが随分違ったものになる。旅行ガイド本頼りの旅では見えてこない土地の表情が見えてくる。
明治維新前夜の慶應二年(1866年)という年は、全国的に百姓一揆が頻発した時期である。幕藩体制の限界を感じた民衆が全国81箇所で口裏を合わせたように一斉に一揆を起こした。
名栗村は天領だったが、徳川家のお膝元のその名栗村からも一揆が起こった。近世最大といわれる武州一揆は名栗村から起こり飯能、所沢、坂戸、松山、寄居、熊谷、本庄、秩父にまで一揆による打ちこわしの波が及んだ。一揆に加わった人は十万とも、二十万ともいわれている。
薩長土肥の下級武士が中心となって明治維新は成し遂げられたが、その2年前、社会の底流には民衆の不満、変化への願望が渦巻いていた。維新成功の裏には民衆の支持があったことを見逃してはならない。
名栗村で一揆の先頭にたったのが嶋田紋次郎と新井豊五郎の2人であるが、一揆の志望者として後に刑死したため、この歴史的事実はつい先ごろまで名栗村ではタブー視されてきた。
このことはガイド本では絶対に紹介されないが、今回、中村さんのガイドで紋次郎と豊五郎の足跡を刻む場所や建物を訪れることが出来た。
次回訪れるときは名栗に残る民話をじっくり聞きたいものである。
【見学先のホームページ】 |
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「笑美亭」 |