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緑と文化的環境つくりが目標


 昨年11月に放送されたNHKの番組「難問解決 ご近所の底力」で老朽化したマンションの扱いがテーマに取り上げられた。

 大阪の豊中市のマンションが「建て替え」の成功事例として、埼玉県狭山市の「新狭山ハイツ」が「修繕」で快適なマンション生活を継続している成功事例として紹介された。


 「新狭山ハイツ」は埼玉県狭山市に昭和48年、49年に民間ディベロッパーにより開発された、770世帯が暮らす大規模集合住宅である。豊かな自然が残された狭山丘陵を切り開いた、典型的な郊外型集合住宅である。

 昭和45年から昭和50年にかけたこの頃は、団塊世代が結婚し、家庭を持ち始めたころで、第二次ベビーブームと呼ばれた時期である。

 戦後を引きずった一面と躍進著しい日本経済を社会的背景にして、都市の住環境は空気の汚れ、人口の急増・密集により、決して恵まれた状態とはいえなかった。郊外の緑豊かな環境で子育てを、という人々の願いを反映したのが、大規模郊外型集合住宅だった。

 昭和45年に大阪の「千里ニュータウン」が完成、翌年には東京の「多摩ニュータウン」の入居が始まった。


 「新狭山ハイツ」の入居がはじまったのが昭和48年、49年で、当時の世の中の出来事を拾い上げるとこの時期の様子がおぼろげに見えてくる。


 昭和48年、春闘史初の交通ゼネストで都内の公共交通機関がすべて止まり、街にはガロの「学生街の喫茶店」が流れていた。小松左京の「日本沈没」がベストセラーになり、オイルショックで日常生活の不安ともろさが増幅された年だった。

 翌49年は東京丸の内の三菱重工業の本社ビルが爆破され、今太閤と呼ばれた田中角栄首相が月刊誌「文芸春秋」で金脈を暴露され、退陣してしまった。ミスタープロ野球の長嶋茂雄が引退し、「ノストラダムスの大予言」がベストセラーになった。心の底に不安定さを抱えた世相の中で、都内にセブンイレブンの一号店がオープンしたのもこの年である。


 「新狭山ハイツ」の入居当時の平均年齢は35歳、ハイツの周囲には緑豊かな自然が残っていたが、対照的に完成間もない団地の敷地内に緑は少なかった。ただ幸いにも敷地はゆったりとってあり、自分たちの手で植樹しようと思えば、草木を植えるスペースは豊富にあった。

 そこで団地内に緑を倍増すること、子供たちに文化的な環境を整えることの二つを目標に掲げ、「緑化推進本部」が7名の有志によって作られた。そして多くの住民参加により団地内の緑の倍増計画は5年という短期間で目標を達成してしまった。

 「緑化推進本部」は自治会とは組織上別にして、固定メンバーで運営され、30年以上たった現在ではメンバーは40数名にふくらみ、維持されている。


 「緑化推進本部」が核となり、以後枝葉のようにさまざまな活動をすすめる会が誕生した。

 団地内の調整池の一部をビオトープに改修して、子供たちの自然への理解を深める「わくわく自然を守り育てる会」、770世帯の約20%が加入して運営される「生ごみリサイクルを進める会」、近隣の休耕地100坪を年2万円で借りて、子供たちを対象にした農業、炭焼き体験をすすめている「楽農クラブ」、団地内の公共物の修繕などを手がける「手作り工房」などそれぞれが独自に活動を行っている。

 これ以外にもパソコン教室や有償福祉サービスを手がける会など、活発な活動が繰り広げられている。

 2008年度の各会の活動報告と、収支報告書が公表されている。それをみると総事業予算は収入が1360万円、支出が1130万円になっている。収入には各種の補助金、助成金が含まれていると思われるが、アルミ缶の回収・リサイクル収入、夏祭りでの屋台販売の収入なども含まれている。支出のなかにはボランティアも仕事の種類によっては、日当を払うこともある。やはり100%無償ボランティアでは長続きしないという現実を踏まえた柔軟な対応をとっている。


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敷地内のゆったりしたスペース

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手入れが行き届いた植栽

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5階建ての低層棟が32棟並んでいる

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シンボル的存在の手作り丸太小屋

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「楽農クラブ」内の炭窯と燃料の小枝

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100坪の「楽農クラブ」の畑とその周囲は個人借りの市民農園