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「農人日記」(秋山豊寛著・新潮社刊)


 少し古い本ですが、元、TBS社員が早期退職して、田舎暮らしを始めた2年間の記録をまとめた本です。「田舎暮らし」をテーマにした本は数限りなく出版されていますが、この本の最大の特色は2点。

 一つ目は著者が日本人初の宇宙飛行士で53歳のときに早期退職して田舎暮らしを始めたことです。

 二つ目は著書のまえがきにあるとおり「この日記は、謂ゆる田舎暮らしにかかわる人間関係というか、農村社会の現状の記録というよりも、商品作物として栽培を始めた椎茸を含めて、稲、麦、蕎麦、雑穀を始め各種野菜や天候、野生動物の活動などについてのメモが中心」に書かれたものです。


 初期の宇宙飛行士のその後はイギリスの作家・アンドリュー・スミス氏による、『月の記憶―アポロ宇宙飛行士たちの「その後」』に詳しく書かれていますが、宇宙体験により生じた超感覚的な影響に対処することができず、精神的に崩壊したり、アルコール中毒になったり、鬱状態に陥ったりするなどを経験し、多数が妻と離婚した事実を紹介しています。

 まえがきのなかで著者が農業を始めるきっかけのひとつに、宇宙体験をあげていますが、少なくとも本文では全くといっていいほど宇宙体験と農業の関係には触れていません。


 読み進んでいくと著者は福島の阿武隈山系の中山間に一人で生活していることがわかります。しかし田舎暮らしにかかわる人間関係、特に家族に関しては一言も意図的に語っていません。


 また著者はリタイア後の趣味的田舎暮らしではなく、地元の農業委員会の承認を得て、始めから営農者として村に移り住んでいます。商品作物として椎茸栽培に取り組み85人の顧客に直接椎茸を販売しながら、取材や講演で収入を補う「半農半ライター」生活をしています。

 本文は全編、椎茸、米を中心にした栽培記録を克明にメモしていて、メモはそのまま栽培テキスト代わりに使えるほど精緻な観察記録となっています。


 著者の農業転進に関する本当のところは、この本ではわかりません。しかし、宇宙空間にポッカリ浮かんだ美しい球体を見てしまったことと、その球体の表面を常時相手にする職業を選択した、そのコントラストに妙に想像を掻き立てられてしまいます。

 それがこの本の不思議な魅力になっているようです。


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