特集

  • 前のページへ
  • 001
  • 次のページへ

300年続く首都圏近郊農家


 江戸時代中期の元禄期から300年以上続く所沢市の農家「関谷農園」の9代目跡取り、関谷和博さんを訪ねた。

 1696年(元禄9年)に現在の埼玉県入間郡三芳町から所沢市にかけて開発された、広大な農地が当時のままの姿を保っている場所がある。

 通称「三富地区」と呼ばれる地域一帯は5代将軍、徳川綱吉の側用人、柳沢吉保が川越藩7万2千石の藩主として着任し、その半年後に開発着手した農地である。

 関が原の戦からほぼ1世紀をへた元禄時代は、社会的な安定と繁栄の時代に入った時期で、当時の江戸の人口は増え続け35万人という記録がある。


 綱吉は「犬公方」という不名誉な名で呼ばれたが、増え続ける江戸の人口対策として食糧増産に腐心した将軍でもあった。関東ローム層に覆われた武蔵野の大地は痩せた土で、農耕に適さない土地だった。

 米は遠隔地から江戸へと輸送され、魚は江戸湾(現東京湾)で採れた新鮮な江戸前でまかなうことができた。干物にすれば全国の海産物も手に入る。

 しかし、生鮮野菜だけは当時の流通事情から江戸近郊でまかなうほかなかった。

 「練馬大根」、「小松菜」(江戸川区小松川で栽培)は綱吉の農産物奨励の遺産である。


 綱吉に重用された柳沢吉保が三富開発に着手したのは、江戸幕府の緊急の食糧増産策が背景にあった。

 江戸近郊農業の奨励策として1戸当たり5町歩(5ha・1万5千坪)の畑を近隣農村から移住した農家180戸が入植して三富はスタートした。

 横40間(72メートル)縦375間(682メートル)の細長い短冊形の農地には公道に面したところに家屋敷を配し、反対側の端には雑木林を残し、その間に5畝(150坪)を1区画単位にした畑が整然と並んでいる。

 関東ローム層に覆われた武蔵野の大地の特徴は、目の細かい赤土で、保水性が悪く、風で土が舞い上がるなど、農耕には適していない。

 そのため、雑木林は防風林として、落ち葉は堆肥として土壌改良に役に立った。また小枝は薪として有効に利用された。水は地下深く井戸を掘り、農業用水として確保した。


 所沢、入間、狭山一帯は関東のお茶どころとして名高いが、そもそもはこの三富の畑の区画割としてお茶を植えたのが始まりといわれている。背が高く、密植できるお茶は畑の中の防風機能を果たし、また加工して農家の貴重な現金収入源になった。

 「関谷農園」の茶畑は、当時からの名残とし残っているがいまは販売目的ではなく自家消費用としてお茶を作っている。


 1戸当たり5町歩は現代の感覚からすれば相当広い畑である。今では年間30種類以上の野菜を作っている大規模農家であるが、開墾当時は稗くらいしか育たない非効率な農地だった。非効率ゆえに大きな面積を必要としたのかもしれない。

 このあたりは川越に代表されるようにサツマイモの産地として有名だが、サツマイモの生産が軌道に乗ったのが開墾後約半世紀後というから、いかに農業を取り巻く環境が厳しい状況にあったのかが想像できる。


記事関連の写真

9代目の関谷和博さん、29歳とまだ若い

記事関連の写真

公道に面して屋敷地がある

記事関連の写真

手前が蔵、奥が屋敷

記事関連の写真

300年前と変わらぬ広大な農地

記事関連の写真

地下100メートルから水をくみ上げる