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農業との出会い

- カミさんに背中を押されて -


 干し鮎を囲炉裏であぶり、おばさんが、朝から足でこねたうどんを材料に、つけうどんのお昼にしてくれた。目の前の小川で捕れた鮎です。場所は茨城県と栃木県の県境に位置する片田舎。戦争で疎開していた、もう60年以上も前のことです。一緒にあったのが、わらび、ぜんまいの煮物(?)でした。そのときの鮎の香り、うどんの食感、山菜(今でこそ、そう言って喜ばれますが)の味は、いまも、私のからだの奥深くに残っています。

 家のまわりにある、ごく当たり前の、そのときにしかない食材。いつも腹を空かせて野山を走り回っていた子どもですから、ことのほかそのおいしさが味蕾を刺激したのかもしれません。


 60年たった平成16年(退職後7年)の初めに、「市内初の開園、体験型農園の入園者募集」の記事を市の広報誌で見つけ、その時よみがえったのが、強烈な印象を残したあの昼飯です。東京の本郷、品川しか知らない完全な都会っ子。結婚後、東村山に転居し、後に、現在の東久留米に移ったものの、サラリーマン時代は一貫して、月に2度の海外出張で北半球を鉢巻き状に飛び回り、地元の畑などに注意を払ったこともない生活でした。

 興味を示した私に、"やってみたら”と、かみさんがうしろから最後の一突き。そんな野菜との関わりも、今年の春に晴れて5回目の落第。すでに5年目も終わりが見えています。

 ”やってみたら”の言外には、「家にばかりいられたらたまらない」が隠されていたのかもしれません。彼女の言葉が後押しになったことは、何を隠そう間違いはありません。

 97年に会社生活を定年退職し、2年ほどは仲間と静岡の三保をベースに、駿河湾を中心に西伊豆の無料温泉と、海の幸を求めて、家を空けることしきり。またまた、野菜とは無関係な生活。


 一転、その後5年間は家で机にかじりついて(PCに向かって)、世界の小学校、中学校を対象とした環境教育のネットワークのための翻訳ボランティアをしていたのですから、このまま家で根を生やされたらという、かみさんの気持ちはよくわかります。でも、自分で料理をするのは苦にもならなければ、むしろ好きな方だし、頭の中にあった60数年前の旬の味を思い出して、野菜栽培との関わりを始めたのも、自然の流れだったのかもしれません。

 もうひとつ大きなきっかけとなったのは、ワールドスクールネットワークでの翻訳ボランティアの時代に、毎年3−4ヶ月を使い、3年間にわたり学芸大学大学院のアメリカ人留学生が、徒歩で北海道の知床から沖縄まで、日本の知恵を探しながら4300キロの旅をしたプロジェクトがありました。


 毎日彼から配信されてくる英文のレポートを、本部のホームページ用に日本語に直し、返ってくる英文のコメントを和文に直す、国内の子どもたちからの返信を英語に直すという作業に、他のボランティアたちと携わっていました。当然その中には、地域の食材、伝統料理、庶民の食事などに関するものも多く、訳す方の好奇心も満たされ、意義あるものでした。

 貧しかった時代の、山間の食文化の伝統を伝える山形県小国町のおばあさんの「むかしの料理」、北海道の然別湖の森でキノコを守る人々の知恵についてのレポート、田植えや稲刈りの時期に、農家の人たちが互いに助け合った日本の農村での人と人との結びつきについて語ったレポート。

 フランスでも同じように、ワイン用のブドウ収穫の時期になると、村人たちは、隣近所に応援に出かけ、ヨーロッパのほかの地域でも、12月になると豚を殺して暮れの準備に入ります。そのために村では、頼まれなくても人々が、忙しそうなシーンを目にすると、手伝いに入る風習が残っているところがあるとか、ヨーロッパの小学生からのコメントです。

 このように、いろいろなメッセージが交換されていました。地に根付いた食文化、食材に対する興味持つようになったのには、そういう背景もありました。


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