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週末農業から別荘ライフへ


 15年前、某アパレルメーカーの宣伝部に勤務していた小泉純司が40歳半ばで唐突にキャンドルアーティストを目指して早期退職した。高原キャベツで有名な群馬県嬬恋村にアトリエを構えたが、元同僚、部下たち、そしてデザイン関係で知り合った仲間が小泉の人柄に引き寄せられるように、週末、嬬恋村に集まり始めた。これが「嬬恋ファームイン」発足のそもそものいきさつである。

 デザイナー、プランナー、イベントコーディネーターといったカタカナ職業の源泉には多分に「創造性」が求められる。彼らは既存の社会通念にとらわれず、自由であることがいい仕事につながる、と信じている人たちである。そして、それにシンクロするように自分自身が仕事をするうえで楽しさ、面白さを見つけ出し、自ら走り出してしまうような性癖の持ち主達だ。

 なぜ選んだ場所が嬬恋村だったのかはおいおい明らかになっていくが、嬬恋村のアウトラインをガイドブック風におさらいしてみる。

 嬬恋村は軽井沢方面から向かうと、浅間山を左手に見ながら、鬼押し岳をすこし越えたところ、標高1200メートルの高原の村である。年間平均気温が7℃強で気候的には札幌に近い。日本を代表するすぐお隣の避暑地、軽井沢の標高が約1000メートルだが、嬬恋はさらに湿度が低く夏はすごしやすい。

 11月から翌年の4月までの半年間は雪と寒さに、村全体が停止状態になる厳しい土地柄だが、春から秋にかけては自然の暖かさ、優しさが倍になって戻ってくる半年だ。草木がいっせいに長い冬から開放されて、新緑が目に染み入る。白樺の白い樹皮が緑のなかに一層映える。夏は高原を渡る風が天然のクーラーの役割を果たし、秋は唐松の葉が黄金に輝き、外国の避暑地を連想させる。

 「嬬恋」の名の由来は「日本書紀」巻第7「景行天皇」にでてくる。景行天皇の治世は大和朝廷が大和一帯の有力族豪族による地域連合政権から脱皮して、全国的な統一政権に移行するための基礎作りにあたる時期だった。景行天皇と后の間に双子の兄弟が授かった。兄を大碓皇子、弟を小碓皇子といい、弟は長じて「日本武尊」と名乗り、父を助けて大和朝廷に従わない全国各地の有力豪族の征伐に奔走した英雄である。

 「日本武尊」は九州の熊襲を撃って、大和に戻るまもなく東国の夷(えびす)征伐のために再び急ぎ出陣した。無事役目を果たし武蔵・上野を巡り碓日坂(碓氷峠)の峰にのぼり、「東南の方を望んで、三度嘆いて「吾嬬はや(わが妻は、ああ)」といわれた。」

 先に「日本武尊」が相模から海を渡って上総へむかうとき、潮の流れに立ち往生していたところを妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に飛び込み、自らの命をもって荒波を鎮めたことを思い出し、亡き妻をしのんだとある。ここからこの地を「嬬恋」とよんだという。

 蛇足だがその後「日本武尊」は大和への帰還途中、現在の鈴鹿あたりで30歳の若さで病没してしまう。

 15年の間に「嬬恋ファームイン」のメンバーが土地の人から借りた畑は何度か場所を替え、現在の場所に落ち着いたが、高台にある広大な畑は浅間山、吾妻山など360度、山に取り囲まれたすばらしいロケーションにある。「日本武尊」も見たかもしれない大自然のパノラマが眼前に広がっている。借りた畑は1200坪(4反)、標高の高い分、空が近くにあって夜、星が大きく見える。天の川が、特に冬の乾燥した夜空に大蛇のようにうねって流れる様子が見ることができる。

 「嬬恋ファームイン」メンバーの大半は東京在住だった。メンバーが自然に集まってきたわけは初期からのメンバーの一人、近藤晋弌によれば小泉の人柄に加え、嬬恋の圧倒的な自然に魅せられたからだという。

 東京から嬬恋までは車でゆうに3時間はかかる。週末農業のためだけなら、東京でも郊外あるいは三多摩地区あたりでも借りようと思えば、まだまだ畑は残っている。市民農園を利用すれば畑仕事の真似事も十分可能だっただろうが、あえて週末に嬬恋へとむかわせたのは、やはり自然のすばらしさに魅入られたからだ。

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