素材

  • 前のページへ
  • 005
  • 次のページへ

甘味料として使い始めたのはインド人?


 砂糖は代表的な甘味料です。古来、甘みに対する人間の欲求は非常に強く、甘いものはたいへんなご馳走でした。砂糖のなかった時代、人は果実やハチミツなどで甘みを補ってきました。スペインのアラーニャにある約1万年前の洞窟壁画には、ハチミツを採取する人の姿が描かれています。サトウキビのしぼり汁を煮詰めて砂糖を精製し、甘味料として使いはじめたのは紀元前2000年ころのインド人だといわれています。サトウキビの原産地は南太平洋の島々で、そこから東南アジアを経由してインドに伝わり、アラビア人によってペルシア、エジプト、中国などへと伝播していきました。そのため、サトウキビ属名の「サッカラム(saccharum)」、英語の「sugar」、フランス語の「sucre」、日本語の「satou」などの言葉の頭部は、砂粒を表すサンスクリット語(梵語)「sarkara」に由来しています。

 砂糖が世界史に登場するのは、紀元前4世紀の古代マケドニア王アレクサンダーのインド遠征にはじまります。「ハチの力を借りずに葦から採れる蜜がある」「インドには噛むと甘い葦や石がある」などの記述が遠征時の文献に散見します。また、最古の仏教典には砂糖が薬のひとつとして記載され、病気による衰弱や疲労回復に奏功する貴重な薬剤として認知されていたようです。日本には、奈良時代後期に唐の鑑真和尚によって伝えられたとされています。正倉院に収められている756年の東大寺の大仏に献上された薬の目録である『種種薬帳』に、サトウキビからつくられた砂糖という意味の「蔗糖」が記載されているように、日本でも砂糖は長いあいだ医薬品として珍重されました。他国との貿易でしかもたらされない砂糖はたいへんな貴重品で、権威のシンボルとして時の権力者に嗜好されます。とくに15世紀半ばに茶の湯が発達すると、砂糖を使用した茶菓子として足利義政はヨウカン、織田信長はコンペイトウを愛用したといわれています。日本で砂糖づくりがはじまったのは江戸時代中期で、徳川吉宗が琉球(沖縄)からサトウキビを取り寄せて江戸城内で試験的に栽培し、温暖地域へ製糖の奨励政策をとってからのことです。しかし気候条件などの問題から、明治時代になって海外の白砂糖が入ってくると、日本の製糖は奄美大島と沖縄県の黒砂糖だけとなります。日本が砂糖植民地としていた台湾などからの海外供給が絶たれた第二次世界大戦時には、国内で砂糖不足が起こり、戦後にはぜいたく品として砂糖は日本人の憧憬を集めました。一方、ヨーロッパには11世紀の十字軍によってもたらされ、シチリア島などの温暖な気候の地中海周辺で砂糖づくりが盛んになりました。当初は貴族のぜいたく品でしたが、やがてコーヒーや紅茶を飲む習慣が庶民のあいだにも広がり、砂糖の消費量が急増します。そのため大航海時代を機に、砂糖産業は地中海から大西洋の島々、ブラジルを中心とする南米、カリブ海地域へと事業展開を拡大していき、砂糖植民地にはサトウキビプランテーションの労働力としてアフリカなどから大量の奴隷が連行されました。1747年にドイツのマルク・グラーフによってテンサイ(サトウダイコン、ビートとも)から砂糖と同じ甘味成分が抽出されると、寒冷地でも育つテンサイがフランスやドイツで盛んに栽培され、テンサイを原料とする製糖業が発達しました。とくにナポレオン一世は大陸封鎖令によって西インド諸島からの砂糖の供給が激減したことを受け、テンサイによる製糖業に着目したといわれています。

記事関連の写真
記事関連の写真
記事関連の写真
記事関連の写真
記事関連の写真
記事関連の写真