生存率は〇・一%
産卵させることは、もっと難しかった。マグロは水温の上がった夏場に産卵するが、それは海洋での話。串本のマグロは、一九七九年にやっと産卵した。
「その卵を孵化させたのですが、なかなか育たず、最長で四十七日しか生きられませんでした」
最後まで生き残った稚魚の体重は十一・二グラム、体長は九・八センチだった。水槽が狭かったせいか、あるいは他の魚と比べて極端に視力が悪いためか、共食いが行われ、生存率はわずか〇・一%であった。
「一九八〇年と八二年に少量の産卵があり、八二年生まれのものが五十七日間生き、何尾かは今も生きています。しかし、そのあと、ぱったり産卵しなくなり、次に産卵するのは一九九四年。十二年後のことになります」
その間、初代研究所長で、生簀網養殖を開発し、世界で最初にハマチやヒラメの養殖に成功した原田輝雄さんが取材中に倒れ、急逝。熊井さんらは悲しみを乗り越えて研究を続けるのだが、なかなか成果を挙げられない。いつ研究費を打ち切られてもおかしくない状況だったが、世耕政隆総長(当時)は、「生き物はそういうもの。そう簡単にいくはずがない」といって逆に励ましたという。
「一九九四年になって、養殖七年目のマグロが八千四百万粒を産卵し、孵化から四十日くらい経過した体長七〜八センチの稚魚を初めて『沖出し』しました」
陸の水槽から沖に設けた深さ三メートル、六メートル四方の生簀へと稚魚を移したであったが、翌朝見るとほとんどが死んでいた。網にぶつかったからだった。最後の一尾は二四六日間生存し、体重一・三キロ、体長四十二・八センチという記録を残した。この教訓で生簀を広げ、直径十二メートルの八角形生簀にしたのである。現在はさらに大きくなって、上記の直径三十メートルの円形生簀である。
二〇〇一年には台風で濁水が流れ込み、あわや全滅と思われたが、一九九五生まれが六尾と八年生まれが十四尾生き残り、これらが五千粒を産卵、ついに「世界初の完全養殖」に成功したのである。苦節三十二年目の快挙であった。
資源を減らさず、マグロを食べ続ける
近畿大では、「五十五年の歴史をもつ近畿大学水産研究所が研究・養殖した魚を、『安全』で『安心』さらに『美味しさの探求』にこだわった魚として広く消費者にお届けすることを目的」(設立趣旨より)として二〇〇三年に「アーマリン近大」というベンチャー企業を発足させ、養殖魚の販売を開始した。ハマチ、アジ、ヒラメ、トラフグ、そして全身トロ≠ニいうスグレモノの完全養殖マグロなどだ。大学ブランドの魚は身元がしっかりしているので、百貨店や有名スーパーから引き合いがある。
完全養殖マグロの成育に成功したが、生態などで解明されなければならないことはまだまだ多く、さらなる研究の進展と成果を期待したい。
【「養殖マグロ」の時代がやってきた・完】